会長インタビュー#4(面川怜花さん・松浦執さん)を公開しました
CIEC会長の若林靖永教授(京都大学経営管理大学院経営研究センター長)がCIEC会員を中心にユニークな研究や実践に取り組む方々を自らがインタビューする企画の第4回を公開しました。
2003年8月7日改定 総則 第1条 この規約は、CIEC会則の第18条から第26条までの規定にもとづき、総会の運営について定めるものである。 2. CIEC会則およびこの規約に定め...
2008年10月1日 第1条本ガイドラインは、CIEC (以下、本会と略記する) 会長が所有する著作物に ついての許諾等についてのルールをとりまとめることを目的とする。 第2条...
2013年8月4日制定 総則 第1条 この会の社員総会における役員 (理事・監事) の選挙はCIEC定款第13条から第21条に基づき,この規約の定めるところによってこれを行う。 選...
2013年6月2日 総則 第1条 この規約は,CIEC定款の第22条から第30条までの規定にもとづき,社員総会の運営について定めるものである。 2. CIEC定款およびこの規約に定める...
CIEC著作権規程 (目的) 第1条 本規程は、一般社団法人 CIEC(以下「本社団」と略記する。)に投稿される著作物に関する著作権の取り扱いに関する基本事項を定める。なお、...
設立総会議事録 日時 1996年7月6日(土) 17時20分〜18時30分 場所 稲田大学理工学部57号館201教室 司会者、松本朗設立準備委員会運営委員 (愛媛大学教員) が、17時20分、...
PC カンファレンスとは PCカンファレンスは CIEC 誕生の源です。CIEC 設立後は全国大学生協連とともに主催し、学会にとって重要な研究交流のための年次集会として発展し...
2025PCカンファレンス 開催地鹿児島大学 郡元キャンパス 全体テーマ教育・学習における常識の革命 発表一覧2025論文集 2024PCカンファレンス 開催地東京都立大学 南大...
記録映像 設立総会 (1996年7月6日) 1本 通常総会 (1997年8月5日) 1本
第1条本規定は、CIEC(以下,本会と略記する)会長が所有する著作権について定め ることを目的とする。 第2条対象とする著作物には次のものがある。 一会誌『コンピュータ&...
CIEC会長の若林靖永教授(京都大学経営管理大学院経営研究センター長)がCIEC会員を中心にユニークな研究や実践に取り組む方々を自らがインタビューする企画の第4回を公開しました。
2019PCカンファレンス2日目の8月7日(水)、CIEC総会会場において「2019年度 CIEC学会賞 論文賞」の表彰式が行われました。CIEC学会賞論文賞は「本会の会誌に論文を発表し、コンピュータ利用教育の発展に独創性および将来性をもって寄与したと認められる者」に授与される賞です(CIEC表彰規定)。
会長インタビューの第4弾のお相手は、同賞を受賞した論文「「ロボットに命はあるの?」人とロボットの心を考えた小学校2年生道徳の授業」(『コンピュータ&エデュケーション』vol.45, pp.41-47,2018)の著者である、面川怜花さん(東京学芸大学附属世田谷小学校教諭)と松浦執さん(東京学芸大学教育学部教授)のお二人です。
(編集:CIEC広報・ウェブ委員会 小野田哲弥)
※教科名称は「特別の教科 道徳」であるが、本稿では二重鉤括弧の『道徳』と表記する。
このたびはCIEC学会賞論文賞の受賞、おめでとうございます。学会誌のタイトル「コンピュータ&エデュケーション」に相応しい新規性の高い実践成果だと評価しております。特に小学校の『道徳』は必修化する中で、どう評価するかなど注目度が高い科目でもありますが、まずは論文の背景として、今日の『道徳』が何を目指しているのかについて伺っていきたいと思います。
私の中では、将来的に自分がどう生きていくか、どう選択するかを考える際に、そもそも自分のことを知らなければその判断ができないのではないかと考えています。「自分を見つめ」て、自分の良い面も悪い面も「自分のよさとして気づく」科目であってほしいと考えています。
早速ハッとさせられました。普通「道徳」というのは社会の方に従うべき倫理やルールが先にあって、それを学びなさいみたいなイメージがあるのに対して、面川先生のお考えはまったく違うんですね。「自分を知る」すなわち、自分の良さや弱さを自覚することによって他者との関係性やルールがわかっていくという。社会や組織に対する自己犠牲を強いるかつての「道徳」とは真逆の、現代に合ったアプローチだと感じました。そのように「個人」を大事にする背景というのは何かあるんですか?
そもそも『道徳』自体が本来そういう学習の時間だと私は理解しています。ただ、学習指導要領は情意面よりも行為面を重視した事例が多いように感じています。たとえば「生命の尊さ」について学ぶ際、「どのようなときに命の大切さに気づくか」の場合では、「ご飯を食べるとき」のように、行為面を伴う例が多いんですね。だから道徳のイメージは誤解されてしまうのかもしれません。私は「ご飯を食べるとき」の場面に出会ったときに感じる心や、その心の背景(その子の生活や経験)が大切だと思っていて。本来はこうした行為の背景にある情意面の耕しを大事にする時間のはずなのです。
情意面が教育で取り扱うにはデリケートな領域というのもその背景としてあるかもしれませんね。つまり「内心の自由」というのは現代の人権の基本で、心の中で何を思っていても処罰されない。一方、行為は責任を伴って罰せられるから、行為の方に注目せざるを得ないという。でも、行為が変わるためにはおっしゃる通り、思いや感情、意図といった情意面が変わる必要がある。情意面をいじるのは問題があるので気をつけなければならないけど、子どもたちが様々な経験をへながら、情意面を豊かにし、自ら判断して望ましい行為を選択し変えていくことを目指されているわけですね。なるほど、情意への注目。今回の論文の中心テーマにつながった気がします。松浦先生はいかがですか?
教育というのは「エデュケートする」というか、あるべき型に当てはめていくというのがあると思うんですけど、たとえば社会学とか理科っていうのは、「社会はどうなっていて、どうあるべきか」や、「自然はどうなっているのか」を見ます。それに対して、「自分はどういうものか」というのは案外教科としてはないですよね。伝統として与えられていたりする場合もあるけれども、積極的に考えることに意味がある。つまり人間というのは、「自分はもっとこうした方がよかった」「こうなろう」という自己修正ができるところが、様々な問題に対処できるポイントだと思うんです。だから、こういう時はこういう行動を取るべきだという知識を与えられて覚えるというのは間違いで、こういう行動を取った方が気分が良い、理に適っている、将来を考えて選択する、そういった「心の中の動き」にまで到達しないと、すぐに忘れちゃう知識になると思うんです。
わかります。やっぱり自分自身の気持ちに伴う行動があって、その行為のリアクションを自分の気持ちで受け止めて…というサイクルがあることはその人の体験になるけど、言われたことを覚えて答案に書いても、それは簡単に忘れますから。本当の意味での学習はその人が変わることだから、ペーパーを書いていい点取るということは、しばしば本当の意味で学習できたとは言えない側面があるということですね。
今回のこの受賞論文を読ませていただいて、本当にユニークだと思いました。ロボットを通じて、いのちの大事さ、生命の尊厳を考えるという内容ですが、まず率直に、子どもたちがどのように感じるのかは予測不可能でコントロールが難しく、学校現場で教材に選ぶのには勇気がいるなぁと。こういう授業実践を『道徳』という科目の中で立てられた意図もあるだろうし、また同時に学ぶためにロボットを材料にしようというアイディアもありますよね。それらについてお聞かせ願えますか。
先ほど話させていただいた私の『道徳』に対する思いから、情意を育てようとしたときに、読み物教材や映像教材への限界を感じていました。それよりも“体験”が大事なんだろうなぁって。読み物や映像だと、肌感ではなく、どうしても“読み取り”の力になってしまう。それも大事なんですけど、小学2年生の子どもたちだから、もっと感情を揺さぶられるようなことがあってほしいなって思ったんです。ちょうど2年前の夏に『道徳』で「美しい心/畏敬の念」の研究授業をすることがあったのですが、その時に「畏敬の念」を身近に感じるのは難しくて、どう子どもと授業をつくろうかって悩んでて…
特に現代の子どもたちは難しいでしょうね。「畏敬」ってどちらかというと権威があることと結びついているけれども、いま権威的に影響力を及ぼす存在の大人ってなかなかいないですもんね。
その時に美しさを感じる対象には人工物も含まれるという点、たとえば花火を見て「わぁ!」とその子の感情が沸き上がることのような体験が教材の中でできないかと考えていたタイミングと、松浦先生がお持ちのロボット校長先生が繋がったんです。NAO校長先生は本校では「チビ校長先生」と子どもたちに親しみを持たれている存在で、「校長先生のお話」でよく出てきて、校長先生に代わってしゃべるんです。そして様々なトラブルなどもありながらも、子どもたちが「何をしゃべるんだろう?」って熱中して聴き入る姿を身近で見ていて、これからのAI時代、ロボットとの関わりを考える上でも興味深い教材になると思ったんです。
なるほど、NAO校長先生はすでに活用されていて、学校行事でも挨拶などをしていたので、単なる教科書の読み取りではない深い学びを行おうとした際に、NAO校長が使えそうだと閃いたわけですね。でも実際に授業プログラムに落とし込もうとすると、そこから一捻りも二捻りも必要になりますよね。松浦先生はそのように持ち掛けられたときにどうお感じになったんですか?
待ってましたと(笑い)。やっぱり授業で何か新しいものを先生が持ち出してくると子どももすごく関心を持ちますが、NAO校長先生の場合はすでに一つのパーソナリティを形成しているので、クラスの先生が何かポンと自分のものを持ってくるのとは、また違った関心を呼ぶと思うんですね。すでに前兆というか、仕込みがされていたというか、体験からすぅ~と入っていける。実際に今回の試みで初めてNAO校長先生が登場したのは、面川先生のクラスの演劇発表の振り返りの時だったんですけど、「えっ!?NAO校長先生も練習見てたの?」みたいな反応が上がりました。
読み物も映像もイメージがあれば体験になると思うけれども、ロボットだったりゲストが来たりといった、よりインタラクティブな相互作用があるものだと、本当にリアルな体験としての学びの場になりうるということですね。ただそこから「命の尊さをロボットで学ぶ」というとこまではもう一つ飛躍があるように思います。その着想はどうして生まれたんですか?
最初はNAO校長先生の特徴を見つめることで、ロボットと人間とを比較して、自分の良さに気づくという方向で授業を計画していました。でも授業の始めのところで、NAO校長先生の話が途中で止まってしまって教室内がざわついたとき、ある子が「みんな待ってあげて!いま考えてるんだから」と、NAO校長先生の気持ちを代弁したんです。その時に人間ではないNAO校長先生も、一緒に生活する、人格をもった一人の人物として見られていると感じたんですね。それで自分が自分でいられる「いのち」というものに着目することで、NAO校長先生と自分を深く見つめられるんじゃないかと思って、授業計画を修正していきました。
それは面白いですね。確かにロボットは人間ではなく、生物でもなく、プログラムで動いているということを大人は知識として知っているので、ロボットと人間との違いは何だという話に持っていきがちだけれども、人間は種として自分のように考えるという特徴があると言われていますが、「待ってあげて」と言った子も、自分が同じように当てられてすぐに答えられなかった経験から、自分の気持ちを投影しちゃったんでしょうね。なるほど、そういった経緯からプログラムが進化していったんですね。では実際に授業実践していく上ではどういった苦労があったんでしょうか?
当初私は、『道徳』の短編として「いのちの授業」を考えていたんですけど、その時間を子どもたちにとって本当に価値ある時間にするためには、それを支える時間が必要だということに気づき始めて、実際4か月かかりました。それはNAO校長先生が教室にきた後のふりかえりで、先ほどの子のように命を見出している子もいれば、まったく無関心の子がいたり、ロボットの機械的な部分に着目する子もいたり、いろいろいたからです。それぞれの疑問にちゃんと向き合う時間を作らないと、各自が考えるところまで行きつかないんじゃないかな、と思ったんですね。疑問を抱えたままだと集中して考えられないので。
たとえば、機械的なことに関しては、NAO校長先生がプログラムで動いているということがわかるように会話プログラムを画面上で見せました。NAO校長先生が反応している・していないということを通して子どもたちの理解を促すことや、目はどこにあって「ご飯」である電気はどうやって取り込むなど、そういうことを一つ一つやってNAO校長先生に寄り添っていったわけです。ただ何時間目に何をやってというのが私の中にあったとしても、子どもたちの中ではそうじゃないことも多くありましたので、どこでどんな教材を出すか、どういう順番でやったらいいのかはすごく悩んだし、苦労しました。
単純に「体験」にしてしまうと、その子が元からもっている知識や見方のままになってしまいますからね。ロボットがプログラムで動いていることを理解する実習があってこそ納得しますものね。疑問を大事にされることは実は自分を大事にされることだと思います。なのでこの疑問に即してという部分が、根本的に重要な点かなと感じました。松浦先生から見ていかがですか?
面川先生をはじめ、小学校の先生方は子どもたちをよく見て、前の授業や前の前の授業の子どもたちの反応を次にどう繋げようかということを真剣に考えていらっしゃって…
本当に高度なアドリブが求められる世界ですよね。
はい。当初この授業は「いのち」を考えるから、ロボットはアルゴリズムに従って動いているだけなのに対して、人間には意思があって尊い、ということを子どもたちが発見するだけかと思っていました。ですが実際に始めてみると、ロボットにはロボットの「いのち」があり、じゃあ私たちの「いのち」はどこにあるの?といった議論に深化していった。最終的に割り切れる答えに持って行こうとする子もいれば、アニミズムに近い発想だったり、自分の投影だったり、いろいろな考え方の子たちがいました。その一つ一つに先生が真摯に向き合って、子どもたちと進んでいった。ついには「ロボットも自分と一緒にいて幸せを感じてほしい」という意見を言う子がでてきて、われわれ教員側の予測を超えて、人間対人間が相対化された、新たな人工物の世界の中で若い世代は成長していっているんだなということに感銘を受けました。
今まさに教育のテーマとして「正解を覚えるところからの脱却」が謳われていますが、子どもたちも大学生も依然として極めて合理的、効率的に行動するという志向が強い中で、いまお話にあったような、明瞭な答えがない中で、じっくり時間をかけて考えるというか、一つのトピックに集中できる環境づくりは大切ですね。そのためには、授業を子どもたちと一緒に創り上げていくとはもちろんのこと、子どもたち同士のインタラクションも重要で、この教育実践の素晴らしいところは、あいだにNAO校長先生を置いたことで、それらが活性化され、お互いの意見を尊重して深い学びができたということですね。
このプログラムで興味深かったのは、ずっと気持ちが変わらない子はいなくて、「ロボットに命はあるかも?いや、ないかも?どっちだろう…?」と揺れ動きながら、それぞれの命の在り方に対する考えが深まっていく形が見えたことですね。
生命をどう捉えるかも含めればもっとバリエーションがあるわけですけど、仮に「あり/なし」だけでも、論文にあったように、スイッチしているという結果が興味深かったですね。単発の授業で「どっちが多数派」と結論を出して終わるのではなく、何度も尋ねて深く考えさせているところが『道徳』の授業っぽいと思いましたし、何度も何度も投票してもらっているところが教育手法として、秀逸だと感じました。
人は迷いながら生きているので、ブレてもいいじゃん、って思うんですよね。全く同じ場面というのは二度とないし、全く同じ感情というのも二度とない。都度感じることがずっと同じである必要はないんだということを子どもたちにも知ってほしかったところもあります。
迷わず即決して行動するのが必ずしも正しい訳じゃなくて、迷うことがあるということを知り、しかも、迷うことはいいことなんだというメッセージになっていますよね。
子どもたちの学びの深化について話してきましたが、今回の授業実践を通じて、先生方の気づきとしてはどんなものがあったのでしょうか?
やっぱり、人ではないロボットに対して「いのち」を見出し、人と同じように接するようになっていったのが一番のびっくりポイントでした。役割演技などを通して「ロボットは自分の言いたいことも言えなくて大変。だから人間の方が素晴らしいんだ」という方向で考えていけたらと思っていたんですけど、そうもいかなくなっちゃって…
先生が最初に考えられたストーリーを理解しつつも、それでも「人間のように大事にしたい」という気持ちが育まれていったということですね。
はい。またこの学習を通して、自分の感情を前提にロボットのことを考えていることもわかりました。たとえば「自分はお風呂に入ってハッピーだから、NAO校長先生もお風呂に入ったらハッピーだ」みたいに。いやいや、NAO校長先生はお風呂に入ったら壊れちゃうんだけど…と思いましたが(笑い)。他にも「一緒にサッカーやったらNAO校長先生も楽しいよ」とか、自分の興味や関心を薦める傾向があることに気づきました。その点から、きっとロボット相手じゃなくて子ども同士でも、そういう関わり方をしているんだろうなというふだんの生活の姿が垣間見えたような気がしました。
ロボットだからこそストレートにそれが見えたということですね。結局ロボットは「自分の鏡」になっているということなんでしょうね。自分がしてほしくないことはロボットもしてほしくないに違いない。だからさっきの子も、自分が言葉に詰まった時に待ってほしかったから、待ってあげるように言ったわけですよね。他人に共感する、他人の心を類推する力っていうのは、人間が社会をつくる上で特別に発達した要素だと言われてますけど、その根底には、他者を自分の投影、すなわち「自分と似た存在として捉える」というのがある。教育者として「なるほど、こういう原理が働いているんだ」という学びがあったわけですね。
今回の実践は『道徳』の授業の中で、子どもたちが「いのち」についていろいろ考えるわけだけれども、「じゃあ落としどころはどこなんだ?」ってよく言われるんですよ。ただ私は、命はこうだ、「いのち=〇〇」と結論を出すのは難しいけれども、命を感じる場面はいっぱいあるんだという、感情面、情意面の発見をたくさんしてもらうことに価値があったと思っています。
確かに、先ほども話に出ましたが、すぐに解答に飛びついてしまう昨今の状況の下で、最後に先生が「命は〇〇」 ってまとめたら、子どもたちはそれだけ記憶して、せっかく多様な体験をしたそれまでが全部消えてしまいますからね。ワークショップでも、偉い先生はまとめたがりますが、まとめられちゃうと記憶が塗り替えられちゃって、自分の体験で掴んだものよりも、権威者が言ったことを学びにしちゃう。自分が体験して実感したものこそが本当の学びなので、特に『道徳』の場合、落としどころがなくプロセスとして受け止める方が向いているかもしれませんね。
松浦先生は今回の授業実践で、驚いたこと、気づいたことは何がありますか?
驚いたことはやはり、機械にも命があると捉えられるような、子どもたちの柔軟性ですね。それは生きている自分があってこそ、相手を思いやれるというものでした。それから、知識や技能を学ぶというのは、自分の外にあるものを取り込むプロセスで、本から効率的に学ぶといった方法もあります。しかし自分と違うものとの“出会い”が、それがロボットであっても、自分の中に新規の思考を引き起こして、曰く言い難い学習になるというのは面白かったですね。
“出会い”ということでいうと、発達年齢にも依りますが、たとえば野外体験を通じて「きのこ」を見たときに、「きのこの気持ちを考えよう」みたいな方向に行っちゃっていいのかという議論はありますよね。幼児だったら可能だし、大人も詩的に考える機会ではあるかもしれないけど、通常『理科』のような科目で取り上げる場合は、やっぱり「きのこの生態」といった話になるべきなので。出会いといえば出会いだし、きのこは生き物だけれども、生き物ではないロボットという存在が、今回は特別にユニークだった気がしますね。もちろんロボットもいろいろありますが、「コミュニケーションロボット」は、人間に似せて、人間的になることを目指して開発がし続けられていますから。
そうですね。だから「AIBO(アイボ)」のようなワンちゃんをはじめ、動物ロボットでの授業展開もあると思うんですけど、自分と話せる存在としてのNAO校長先生だったという教材的意義はすごく大きいと思います。
逆にインタラクションという場合に、通常は「人間対人間」が前提になっているけれども、それだと複雑で授業計画もできないから、ある意味、人間の代わりにロボットにゲストになってもらう実践のようにも感じました。今後もNAO校長先生にはいろんな出番を考えられているんですか?
はい。まさに現在進行形で進んでいるのが、NAO校長先生との関わりを通して「自分の相棒をつくろう」をテーマにした3年生の実践です。たとえば「ピアノを一緒に弾ける相棒がほしい」とか「かわいい相棒がほしい」とか、いろんな意見が出てくるんですけど、どうしてそう思うのか、自分をちょっと遠目からメタ化して考えるというものです。これはもう何か月とかじゃなくて、この1年をかけて取り組んでいきたいテーマです。最初にお話したように、私は道徳教育を「自分を知る」とか「自分を見つめる」ものだと思っていますが、肯定的だけでなく時には批判的に自分を見る力も必要になってきます。そのために、ロボットとの関わりと通して、子どもたちに自分をメタ認知できるような機会を提供していきたいんです。
私自身の教育実践の話をすると、授業の組み立て方で難しいのは、最後に自分自身でどう振り返るかというリフレクションの場面、まさにメタ化ですね。なぜそのように思うのか、さらにもう一段深い内省に繋げていくのが望ましいとイメージはしていても、命令されてできるものでもないし、リフレクションを教えることは本当に難しい。だから先生の場合、まず「相棒をつくる」というテーマでイメージを膨らませるわけですね。一般的、抽象的ではメタ認知にならないので、元の材料を豊かに出した上で深めさせるという手法は、非常に素晴らしいアイディアだと思います。
ただ、現時点では自分がなぜそう考えるかについて「わかんない」という子もいっぱいいて、そういう子たちには「わかんないと書いておいていいよ」と言っています。小学3年生という段階でできるメタ認知には限界があると思いますし、それを私が望んでいる方向に持って行っちゃうと子ども“らしさ”を潰してしまう可能性もあると思っているので。私のやりたいことと子どもの学年とか“らしさ”との塩梅はすごく難しくて、やりすぎないように気をつけなきゃと思いながらも、「わかんない」と書いている子たちが今後どう成長していくかは楽しみではありますね。
他の教科教育だと、「これをマスターして次に上がりなさい」みたいな縛りが強いからそうも言っていられないけど、本来「学び」というのは、その子が用意できている状況下で、適切な働きかけがあることによって変化、すなわち学習するわけだから、目に見える形に現れないからといって、それを無理やりアウトプットさせずに、その子が変わるタイミングを待ってしかるべきですよね。でも現実の「集団指導」的なクラスで授業をするというスタイルは、そういう「個別指導」的な個々人に合わせる学習スタイルとはなかなか両立が難しいですが、特に『道徳』の場合、焦ってはいけない部分だと思いますね。
『学習指導要領』を「しなければならない」マストなものとして受け止めている方が多いですけど、実は「こうしなさい」とはどこにも書かれてないんですよね。特に『道徳』は一番制限されてはいけない科目のはずなのに、教科化されたからといって、時間数厳守とか、特定の教材を使わなければいけないとかに縛られて、すごく幅が狭まっていると危惧を感じています。授業デザインについても、『国語』だって『算数』だって、必ず4時間しなければならないなんてルールは本来なくて、2時間で終わったら、その残った2時間を使ってさらに授業を組み立てていくのが我々教員のデザイン力だと思います。
全部「ボトムアップ」でいいですね(笑い)
本当にその通りで、みんな学校教育を良くしたいと思っている。でも、できない。何がその障害になっているかという議論で、『学習指導要領』があるからだって言う人もいるけど、『学習指導要領』があったって、いろんなことができるんですよね。
CIECに対する期待もそれと一緒で、教育現場を、楽しい経験を重ねていく場にするってことですよね。
私もそう思います。教育現場が楽しくないはずがない。そこには二つの意味があって、一つは、楽しくなかったら、それは良い教育じゃないんですよ。そしてもう一つ。楽しくなかったら、教育効果、学習効果も上がらないと思うんです。いずれにしても、教育は本来教師にとっても楽しい活動のはずなんです。
松浦先生のおかげで、私はいろんなチャレンジをさせてもらっているなって感じます。私が大切にしたいのは「先生が何でもしてくれる」じゃなくて、子どもたちが自分の力で考えるようになれること。だから「教えよう」というより、真摯に子どもたちと一緒になって「悩んで考えよう」というスタイルを今後も大事にしていこうと思っています。
本当にCIECも、楽しい教育現場を広げていける、ユニークな実践を頑張っている先生方がお互い励まし合って交流できる場になるように、もっともっと盛り立てていきたいと思いますので、今度ともどうぞよろしくお願いします。本日はインタビュー、どうもありがとうございました。
オープン・エデュケーション部会では、世話人を中心にここ数年をかけて北米を中心にニューヨーク公共図書館やカリフォルニア大学などの図書館やラーニングコモンズを継続的に視察している。そして去る9月には、カリフォルニア州立大学ドミンゲスヒルズ校を訪問し、カリフォルニア州立大学23校間における図書館連携、オープンエデュケーショナルリソース(OER)の現状を視察してきた。さらに、パサデナシティカレッジ校では、カリフォルニアにおけるコミュニティカレッジの課題とその解決の方法の一つとしての図書館そしてOER の在り方を調査してきた。
今回の研究会では,まず吉田氏からオープン・エデュケーション部会の取組と北米の視察の報告,UCOMのFaustino Hernandez氏から北米の高等教育におけるデジタル教材等の最新情報、武沢氏からMERLOTとOERについて、伊藤氏からは中等教育の視点からの報告、さらに澤口氏から英国におけるオープンユニバーシティの現状と課題を報告する。
以上の報告を受けて、参加者とともに、高等教育や初等中等教育における図 書館、OERなどの在り方などを中心に議論し,万人に開かれるオープンな学びを実現するための教育環境の課題について考える。
参加人数:約20名
本会員の研究発表・交流の促進および相互研鑽に資することを目的として開催してきた「CIEC春季研究会」が10年を経過しました。そこで,これまでの研究会の実績を踏まえ,査読付き論文採録者による講演に加え,ポスター発表(一般・小中高生)を新設し,より拡充した研究会を今回より「CIEC春季カンファレンス」と称し開催いたします。
学びとコンピュータ・ネットワーク利用に関する実践・研究,ICTを活用した新たな学び・教育方法などに関する実践・研究論文とその発表,さらには小中高生によるポスター発表では,授業内外でおこなった探究活動・調査活動・プログラム作成など,幅広い分野・対象における成果の発表を募集します。応募いただいた講演論文は,本委員会による査読・審査を経た「査読付き論文」として,ポスター発表論文は「査読なし論文」として,それぞれ採録され,『CIEC春季カンファレンス論文集Vol.11』(以下,「論文集」)として刊行されます。本研究会の趣旨として,採択された論文の著者には,「CIEC春季カンファレンス2020」で講演・ポスター発表していただきます。
皆さまの積極的な参加をお待ちしております。
募集論文カテゴリ:
参加費:
表彰:
講演論文・ポスター発表論文ともに,投稿者は次の資格を有するか。応募締切日(2019年12月12日(木))までに,次のいずれかの資格手続きを完了していることが必要です。
論文が採録決定された場合には,論文投稿とは別に必ず参加申込みをおこない,「春季カンファレンス2020」当日,講演・ポスター発表を行なう必要があります。なお,講演論文の採録数が多数の場合には,ポスター形式での発表となる場合があります。
学びとコンピュータ・ネットワーク利用やその発展に役立つ内容を順序立てて明瞭に記述した内容であり,独創性,新規性,有用性,信頼性の高い研究・実践内容を体系的にまとめた内容,会員やこの分野に関心を持つ読者に有益となる新たなデータをまとめた内容,学びに有効な方法やシステムや環境等を新たに開発しその有用性に言及した内容等であることが求められます。
学びとコンピュータ・ネットワーク利用に関する独創的な発想や意外性のある着想に基づく新たな分野での取り組みや方法を示しているなどの芽生え期の研究で,方法や条件が明確で,有用性,信頼性が高く,今後の成果が期待される内容等であることが求められます。
学びとコンピュータやネットワークの利用に関する研究・実践成果を記述した内容,速報的・資料的価値が高い成果・データをまとめた内容などで,方法と成果を明確に記述した内容であることが求められます。
小中高生が授業内外でおこなった探究活動の成果について,指導教員の支援を受けながら小中高生自身が論文を執筆し,ポスター形式で発表します。探究活動の分野は,プログラミング(システムの構築やアプリ開発など)や情報関連のトピック(人工知能,暗号などの調査)の他,理科・社会科・外国語科でのコンピュータ利用など,情報分野に制限されません。つまり,情報機器の活用場面が含まれている内容であれば分野・科目は問わず発表することができます。発表当日は安全面を考慮し、教員による引率または保護者等の付添がのぞましい。
各論文カテゴリの執筆要領(テンプレートファイル)をダウンロードして利用して下さい。ただし,提出する原稿ファイルのサイズは3MBを超えないよう留意してください。
講演論文の査読は,研究委員会の編集委員会で査読者を選び,1回のみ行います。査読の結果,条件付き採録となった場合には,投稿者は査読者の採録条件を満たすよう書き換えて,期日までに提出しなければなりません。
ポスター発表論文については査読しませんが,応募時に提出された発表論文の概要(200~400字)により簡易審査をいたします。審査の結果,採択された場合はポスター発表論文(2ページ)を期限までに提出しなければなりません。期限を過ぎると白紙にタイトル・氏名・所属のみの掲載となりますのでご注意ください。提出された論文の査読はいたしませんが,可読性の観点から修正を依頼する場合があります。
2019年11月1日(金)~12月12日(木)16時まで
jim@ciec.or.jp
事務局から提出受付を確認するメールを送信しますが、確認メールが届かない場合は、事務局にお問い合わせ下さい。
2020年3月21日(土)
論文集に掲載される原稿については,著作権のうち,複製権,翻訳・翻案権,公衆送信・伝達権を一般社団法人CIECに譲渡するものとします。CIECサイトから「著作権譲渡契約書」をダウンロードし,投稿時に提出して下さい。
参加費に論文集1冊分が含まれていますが,論文集のみを購入希望される場合の価格は次のとおりです。
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