2019PCカンファレンス2日目の8月7日(水)、CIEC総会会場において「2019年度 CIEC学会賞 論文賞」の表彰式が行われました。CIEC学会賞論文賞は「本会の会誌に論文を発表し、コンピュータ利用教育の発展に独創性および将来性をもって寄与したと認められる者」に授与される賞です(CIEC表彰規定)。

会長インタビューの第4弾のお相手は、同賞を受賞した論文「「ロボットに命はあるの?」人とロボットの心を考えた小学校2年生道徳の授業」(『コンピュータ&エデュケーション』vol.45, pp.41-47,2018)の著者である、面川怜花さん(東京学芸大学附属世田谷小学校教諭)と松浦執さん(東京学芸大学教育学部教授)のお二人です。

(編集:CIEC広報・ウェブ委員会 小野田哲弥)


2019PCカンファレンス表彰式(左から、松浦執さん、面川怜花さん、若林靖永CIEC会長)


1.教科化された『道徳』※で何を目指すか


※教科名称は「特別の教科 道徳」であるが、本稿では二重鉤括弧の『道徳』と表記する。



若林

このたびはCIEC学会賞論文賞の受賞、おめでとうございます。学会誌のタイトル「コンピュータ&エデュケーション」に相応しい新規性の高い実践成果だと評価しております。特に小学校の『道徳』は必修化する中で、どう評価するかなど注目度が高い科目でもありますが、まずは論文の背景として、今日の『道徳』が何を目指しているのかについて伺っていきたいと思います。



面川

私の中では、将来的に自分がどう生きていくか、どう選択するかを考える際に、そもそも自分のことを知らなければその判断ができないのではないかと考えています。「自分を見つめ」て、自分の良い面も悪い面も「自分のよさとして気づく」科目であってほしいと考えています。



若林

早速ハッとさせられました。普通「道徳」というのは社会の方に従うべき倫理やルールが先にあって、それを学びなさいみたいなイメージがあるのに対して、面川先生のお考えはまったく違うんですね。「自分を知る」すなわち、自分の良さや弱さを自覚することによって他者との関係性やルールがわかっていくという。社会や組織に対する自己犠牲を強いるかつての「道徳」とは真逆の、現代に合ったアプローチだと感じました。そのように「個人」を大事にする背景というのは何かあるんですか?



面川

そもそも『道徳』自体が本来そういう学習の時間だと私は理解しています。ただ、学習指導要領は情意面よりも行為面を重視した事例が多いように感じています。たとえば「生命の尊さ」について学ぶ際、「どのようなときに命の大切さに気づくか」の場合では、「ご飯を食べるとき」のように、行為面を伴う例が多いんですね。だから道徳のイメージは誤解されてしまうのかもしれません。私は「ご飯を食べるとき」の場面に出会ったときに感じる心や、その心の背景(その子の生活や経験)が大切だと思っていて。本来はこうした行為の背景にある情意面の耕しを大事にする時間のはずなのです。



若林

情意面が教育で取り扱うにはデリケートな領域というのもその背景としてあるかもしれませんね。つまり「内心の自由」というのは現代の人権の基本で、心の中で何を思っていても処罰されない。一方、行為は責任を伴って罰せられるから、行為の方に注目せざるを得ないという。でも、行為が変わるためにはおっしゃる通り、思いや感情、意図といった情意面が変わる必要がある。情意面をいじるのは問題があるので気をつけなければならないけど、子どもたちが様々な経験をへながら、情意面を豊かにし、自ら判断して望ましい行為を選択し変えていくことを目指されているわけですね。なるほど、情意への注目。今回の論文の中心テーマにつながった気がします。松浦先生はいかがですか?



松浦

教育というのは「エデュケートする」というか、あるべき型に当てはめていくというのがあると思うんですけど、たとえば社会学とか理科っていうのは、「社会はどうなっていて、どうあるべきか」や、「自然はどうなっているのか」を見ます。それに対して、「自分はどういうものか」というのは案外教科としてはないですよね。伝統として与えられていたりする場合もあるけれども、積極的に考えることに意味がある。つまり人間というのは、「自分はもっとこうした方がよかった」「こうなろう」という自己修正ができるところが、様々な問題に対処できるポイントだと思うんです。だから、こういう時はこういう行動を取るべきだという知識を与えられて覚えるというのは間違いで、こういう行動を取った方が気分が良い、理に適っている、将来を考えて選択する、そういった「心の中の動き」にまで到達しないと、すぐに忘れちゃう知識になると思うんです。



若林

わかります。やっぱり自分自身の気持ちに伴う行動があって、その行為のリアクションを自分の気持ちで受け止めて…というサイクルがあることはその人の体験になるけど、言われたことを覚えて答案に書いても、それは簡単に忘れますから。本当の意味での学習はその人が変わることだから、ペーパーを書いていい点取るということは、しばしば本当の意味で学習できたとは言えない側面があるということですね。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん、松浦執さん)


2.教材としてロボットを導入した経緯



若林

今回のこの受賞論文を読ませていただいて、本当にユニークだと思いました。ロボットを通じて、いのちの大事さ、生命の尊厳を考えるという内容ですが、まず率直に、子どもたちがどのように感じるのかは予測不可能でコントロールが難しく、学校現場で教材に選ぶのには勇気がいるなぁと。こういう授業実践を『道徳』という科目の中で立てられた意図もあるだろうし、また同時に学ぶためにロボットを材料にしようというアイディアもありますよね。それらについてお聞かせ願えますか。



面川

先ほど話させていただいた私の『道徳』に対する思いから、情意を育てようとしたときに、読み物教材や映像教材への限界を感じていました。それよりも“体験”が大事なんだろうなぁって。読み物や映像だと、肌感ではなく、どうしても“読み取り”の力になってしまう。それも大事なんですけど、小学2年生の子どもたちだから、もっと感情を揺さぶられるようなことがあってほしいなって思ったんです。ちょうど2年前の夏に『道徳』で「美しい心/畏敬の念」の研究授業をすることがあったのですが、その時に「畏敬の念」を身近に感じるのは難しくて、どう子どもと授業をつくろうかって悩んでて…



若林

特に現代の子どもたちは難しいでしょうね。「畏敬」ってどちらかというと権威があることと結びついているけれども、いま権威的に影響力を及ぼす存在の大人ってなかなかいないですもんね。



面川

その時に美しさを感じる対象には人工物も含まれるという点、たとえば花火を見て「わぁ!」とその子の感情が沸き上がることのような体験が教材の中でできないかと考えていたタイミングと、松浦先生がお持ちのロボット校長先生が繋がったんです。NAO校長先生は本校では「チビ校長先生」と子どもたちに親しみを持たれている存在で、「校長先生のお話」でよく出てきて、校長先生に代わってしゃべるんです。そして様々なトラブルなどもありながらも、子どもたちが「何をしゃべるんだろう?」って熱中して聴き入る姿を身近で見ていて、これからのAI時代、ロボットとの関わりを考える上でも興味深い教材になると思ったんです。



若林

なるほど、NAO校長先生はすでに活用されていて、学校行事でも挨拶などをしていたので、単なる教科書の読み取りではない深い学びを行おうとした際に、NAO校長が使えそうだと閃いたわけですね。でも実際に授業プログラムに落とし込もうとすると、そこから一捻りも二捻りも必要になりますよね。松浦先生はそのように持ち掛けられたときにどうお感じになったんですか?



松浦

待ってましたと(笑い)。やっぱり授業で何か新しいものを先生が持ち出してくると子どももすごく関心を持ちますが、NAO校長先生の場合はすでに一つのパーソナリティを形成しているので、クラスの先生が何かポンと自分のものを持ってくるのとは、また違った関心を呼ぶと思うんですね。すでに前兆というか、仕込みがされていたというか、体験からすぅ~と入っていける。実際に今回の試みで初めてNAO校長先生が登場したのは、面川先生のクラスの演劇発表の振り返りの時だったんですけど、「えっ!?NAO校長先生も練習見てたの?」みたいな反応が上がりました。


東京学芸大学附属世田谷小学校における面川怜花さんの授業風景


3.丁寧に、疑問と向き合う大切さ



若林

読み物も映像もイメージがあれば体験になると思うけれども、ロボットだったりゲストが来たりといった、よりインタラクティブな相互作用があるものだと、本当にリアルな体験としての学びの場になりうるということですね。ただそこから「命の尊さをロボットで学ぶ」というとこまではもう一つ飛躍があるように思います。その着想はどうして生まれたんですか?



面川

最初はNAO校長先生の特徴を見つめることで、ロボットと人間とを比較して、自分の良さに気づくという方向で授業を計画していました。でも授業の始めのところで、NAO校長先生の話が途中で止まってしまって教室内がざわついたとき、ある子が「みんな待ってあげて!いま考えてるんだから」と、NAO校長先生の気持ちを代弁したんです。その時に人間ではないNAO校長先生も、一緒に生活する、人格をもった一人の人物として見られていると感じたんですね。それで自分が自分でいられる「いのち」というものに着目することで、NAO校長先生と自分を深く見つめられるんじゃないかと思って、授業計画を修正していきました。



若林

それは面白いですね。確かにロボットは人間ではなく、生物でもなく、プログラムで動いているということを大人は知識として知っているので、ロボットと人間との違いは何だという話に持っていきがちだけれども、人間は種として自分のように考えるという特徴があると言われていますが、「待ってあげて」と言った子も、自分が同じように当てられてすぐに答えられなかった経験から、自分の気持ちを投影しちゃったんでしょうね。なるほど、そういった経緯からプログラムが進化していったんですね。では実際に授業実践していく上ではどういった苦労があったんでしょうか?



面川

当初私は、『道徳』の短編として「いのちの授業」を考えていたんですけど、その時間を子どもたちにとって本当に価値ある時間にするためには、それを支える時間が必要だということに気づき始めて、実際4か月かかりました。それはNAO校長先生が教室にきた後のふりかえりで、先ほどの子のように命を見出している子もいれば、まったく無関心の子がいたり、ロボットの機械的な部分に着目する子もいたり、いろいろいたからです。それぞれの疑問にちゃんと向き合う時間を作らないと、各自が考えるところまで行きつかないんじゃないかな、と思ったんですね。疑問を抱えたままだと集中して考えられないので。



面川

たとえば、機械的なことに関しては、NAO校長先生がプログラムで動いているということがわかるように会話プログラムを画面上で見せました。NAO校長先生が反応している・していないということを通して子どもたちの理解を促すことや、目はどこにあって「ご飯」である電気はどうやって取り込むなど、そういうことを一つ一つやってNAO校長先生に寄り添っていったわけです。ただ何時間目に何をやってというのが私の中にあったとしても、子どもたちの中ではそうじゃないことも多くありましたので、どこでどんな教材を出すか、どういう順番でやったらいいのかはすごく悩んだし、苦労しました。



若林

単純に「体験」にしてしまうと、その子が元からもっている知識や見方のままになってしまいますからね。ロボットがプログラムで動いていることを理解する実習があってこそ納得しますものね。疑問を大事にされることは実は自分を大事にされることだと思います。なのでこの疑問に即してという部分が、根本的に重要な点かなと感じました。松浦先生から見ていかがですか?



松浦

面川先生をはじめ、小学校の先生方は子どもたちをよく見て、前の授業や前の前の授業の子どもたちの反応を次にどう繋げようかということを真剣に考えていらっしゃって…



若林

本当に高度なアドリブが求められる世界ですよね。



松浦

はい。当初この授業は「いのち」を考えるから、ロボットはアルゴリズムに従って動いているだけなのに対して、人間には意思があって尊い、ということを子どもたちが発見するだけかと思っていました。ですが実際に始めてみると、ロボットにはロボットの「いのち」があり、じゃあ私たちの「いのち」はどこにあるの?といった議論に深化していった。最終的に割り切れる答えに持って行こうとする子もいれば、アニミズムに近い発想だったり、自分の投影だったり、いろいろな考え方の子たちがいました。その一つ一つに先生が真摯に向き合って、子どもたちと進んでいった。ついには「ロボットも自分と一緒にいて幸せを感じてほしい」という意見を言う子がでてきて、われわれ教員側の予測を超えて、人間対人間が相対化された、新たな人工物の世界の中で若い世代は成長していっているんだなということに感銘を受けました。



若林

今まさに教育のテーマとして「正解を覚えるところからの脱却」が謳われていますが、子どもたちも大学生も依然として極めて合理的、効率的に行動するという志向が強い中で、いまお話にあったような、明瞭な答えがない中で、じっくり時間をかけて考えるというか、一つのトピックに集中できる環境づくりは大切ですね。そのためには、授業を子どもたちと一緒に創り上げていくとはもちろんのこと、子どもたち同士のインタラクションも重要で、この教育実践の素晴らしいところは、あいだにNAO校長先生を置いたことで、それらが活性化され、お互いの意見を尊重して深い学びができたということですね。



面川

このプログラムで興味深かったのは、ずっと気持ちが変わらない子はいなくて、「ロボットに命はあるかも?いや、ないかも?どっちだろう…?」と揺れ動きながら、それぞれの命の在り方に対する考えが深まっていく形が見えたことですね。



若林

生命をどう捉えるかも含めればもっとバリエーションがあるわけですけど、仮に「あり/なし」だけでも、論文にあったように、スイッチしているという結果が興味深かったですね。単発の授業で「どっちが多数派」と結論を出して終わるのではなく、何度も尋ねて深く考えさせているところが『道徳』の授業っぽいと思いましたし、何度も何度も投票してもらっているところが教育手法として、秀逸だと感じました。



面川

人は迷いながら生きているので、ブレてもいいじゃん、って思うんですよね。全く同じ場面というのは二度とないし、全く同じ感情というのも二度とない。都度感じることがずっと同じである必要はないんだということを子どもたちにも知ってほしかったところもあります。



若林

迷わず即決して行動するのが必ずしも正しい訳じゃなくて、迷うことがあるということを知り、しかも、迷うことはいいことなんだというメッセージになっていますよね。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん)


4.ロボットは自分を映す鏡



若林

子どもたちの学びの深化について話してきましたが、今回の授業実践を通じて、先生方の気づきとしてはどんなものがあったのでしょうか?



面川

やっぱり、人ではないロボットに対して「いのち」を見出し、人と同じように接するようになっていったのが一番のびっくりポイントでした。役割演技などを通して「ロボットは自分の言いたいことも言えなくて大変。だから人間の方が素晴らしいんだ」という方向で考えていけたらと思っていたんですけど、そうもいかなくなっちゃって…



若林

先生が最初に考えられたストーリーを理解しつつも、それでも「人間のように大事にしたい」という気持ちが育まれていったということですね。



面川

はい。またこの学習を通して、自分の感情を前提にロボットのことを考えていることもわかりました。たとえば「自分はお風呂に入ってハッピーだから、NAO校長先生もお風呂に入ったらハッピーだ」みたいに。いやいや、NAO校長先生はお風呂に入ったら壊れちゃうんだけど…と思いましたが(笑い)。他にも「一緒にサッカーやったらNAO校長先生も楽しいよ」とか、自分の興味や関心を薦める傾向があることに気づきました。その点から、きっとロボット相手じゃなくて子ども同士でも、そういう関わり方をしているんだろうなというふだんの生活の姿が垣間見えたような気がしました。



若林

ロボットだからこそストレートにそれが見えたということですね。結局ロボットは「自分の鏡」になっているということなんでしょうね。自分がしてほしくないことはロボットもしてほしくないに違いない。だからさっきの子も、自分が言葉に詰まった時に待ってほしかったから、待ってあげるように言ったわけですよね。他人に共感する、他人の心を類推する力っていうのは、人間が社会をつくる上で特別に発達した要素だと言われてますけど、その根底には、他者を自分の投影、すなわち「自分と似た存在として捉える」というのがある。教育者として「なるほど、こういう原理が働いているんだ」という学びがあったわけですね。



面川

今回の実践は『道徳』の授業の中で、子どもたちが「いのち」についていろいろ考えるわけだけれども、「じゃあ落としどころはどこなんだ?」ってよく言われるんですよ。ただ私は、命はこうだ、「いのち=〇〇」と結論を出すのは難しいけれども、命を感じる場面はいっぱいあるんだという、感情面、情意面の発見をたくさんしてもらうことに価値があったと思っています。



若林

確かに、先ほども話に出ましたが、すぐに解答に飛びついてしまう昨今の状況の下で、最後に先生が「命は〇〇」 ってまとめたら、子どもたちはそれだけ記憶して、せっかく多様な体験をしたそれまでが全部消えてしまいますからね。ワークショップでも、偉い先生はまとめたがりますが、まとめられちゃうと記憶が塗り替えられちゃって、自分の体験で掴んだものよりも、権威者が言ったことを学びにしちゃう。自分が体験して実感したものこそが本当の学びなので、特に『道徳』の場合、落としどころがなくプロセスとして受け止める方が向いているかもしれませんね。


東京学芸大学附属世田谷小学校の黒板に貼り出された授業展開を表した模造紙


5.コミュニケーションロボットならではの意義



若林

松浦先生は今回の授業実践で、驚いたこと、気づいたことは何がありますか?



松浦

驚いたことはやはり、機械にも命があると捉えられるような、子どもたちの柔軟性ですね。それは生きている自分があってこそ、相手を思いやれるというものでした。それから、知識や技能を学ぶというのは、自分の外にあるものを取り込むプロセスで、本から効率的に学ぶといった方法もあります。しかし自分と違うものとの“出会い”が、それがロボットであっても、自分の中に新規の思考を引き起こして、曰く言い難い学習になるというのは面白かったですね。



若林

“出会い”ということでいうと、発達年齢にも依りますが、たとえば野外体験を通じて「きのこ」を見たときに、「きのこの気持ちを考えよう」みたいな方向に行っちゃっていいのかという議論はありますよね。幼児だったら可能だし、大人も詩的に考える機会ではあるかもしれないけど、通常『理科』のような科目で取り上げる場合は、やっぱり「きのこの生態」といった話になるべきなので。出会いといえば出会いだし、きのこは生き物だけれども、生き物ではないロボットという存在が、今回は特別にユニークだった気がしますね。もちろんロボットもいろいろありますが、「コミュニケーションロボット」は、人間に似せて、人間的になることを目指して開発がし続けられていますから。



面川

そうですね。だから「AIBO(アイボ)」のようなワンちゃんをはじめ、動物ロボットでの授業展開もあると思うんですけど、自分と話せる存在としてのNAO校長先生だったという教材的意義はすごく大きいと思います。



若林

逆にインタラクションという場合に、通常は「人間対人間」が前提になっているけれども、それだと複雑で授業計画もできないから、ある意味、人間の代わりにロボットにゲストになってもらう実践のようにも感じました。今後もNAO校長先生にはいろんな出番を考えられているんですか?



面川

はい。まさに現在進行形で進んでいるのが、NAO校長先生との関わりを通して「自分の相棒をつくろう」をテーマにした3年生の実践です。たとえば「ピアノを一緒に弾ける相棒がほしい」とか「かわいい相棒がほしい」とか、いろんな意見が出てくるんですけど、どうしてそう思うのか、自分をちょっと遠目からメタ化して考えるというものです。これはもう何か月とかじゃなくて、この1年をかけて取り組んでいきたいテーマです。最初にお話したように、私は道徳教育を「自分を知る」とか「自分を見つめる」ものだと思っていますが、肯定的だけでなく時には批判的に自分を見る力も必要になってきます。そのために、ロボットとの関わりと通して、子どもたちに自分をメタ認知できるような機会を提供していきたいんです。



若林

私自身の教育実践の話をすると、授業の組み立て方で難しいのは、最後に自分自身でどう振り返るかというリフレクションの場面、まさにメタ化ですね。なぜそのように思うのか、さらにもう一段深い内省に繋げていくのが望ましいとイメージはしていても、命令されてできるものでもないし、リフレクションを教えることは本当に難しい。だから先生の場合、まず「相棒をつくる」というテーマでイメージを膨らませるわけですね。一般的、抽象的ではメタ認知にならないので、元の材料を豊かに出した上で深めさせるという手法は、非常に素晴らしいアイディアだと思います。


インタビュー風景(左から、若林靖永CIEC会長、面川怜花さん、松浦執さん)


6.教育は、自由で楽しいチャレンジの場



面川

ただ、現時点では自分がなぜそう考えるかについて「わかんない」という子もいっぱいいて、そういう子たちには「わかんないと書いておいていいよ」と言っています。小学3年生という段階でできるメタ認知には限界があると思いますし、それを私が望んでいる方向に持って行っちゃうと子ども“らしさ”を潰してしまう可能性もあると思っているので。私のやりたいことと子どもの学年とか“らしさ”との塩梅はすごく難しくて、やりすぎないように気をつけなきゃと思いながらも、「わかんない」と書いている子たちが今後どう成長していくかは楽しみではありますね。



若林

他の教科教育だと、「これをマスターして次に上がりなさい」みたいな縛りが強いからそうも言っていられないけど、本来「学び」というのは、その子が用意できている状況下で、適切な働きかけがあることによって変化、すなわち学習するわけだから、目に見える形に現れないからといって、それを無理やりアウトプットさせずに、その子が変わるタイミングを待ってしかるべきですよね。でも現実の「集団指導」的なクラスで授業をするというスタイルは、そういう「個別指導」的な個々人に合わせる学習スタイルとはなかなか両立が難しいですが、特に『道徳』の場合、焦ってはいけない部分だと思いますね。



面川

『学習指導要領』を「しなければならない」マストなものとして受け止めている方が多いですけど、実は「こうしなさい」とはどこにも書かれてないんですよね。特に『道徳』は一番制限されてはいけない科目のはずなのに、教科化されたからといって、時間数厳守とか、特定の教材を使わなければいけないとかに縛られて、すごく幅が狭まっていると危惧を感じています。授業デザインについても、『国語』だって『算数』だって、必ず4時間しなければならないなんてルールは本来なくて、2時間で終わったら、その残った2時間を使ってさらに授業を組み立てていくのが我々教員のデザイン力だと思います。



松浦

全部「ボトムアップ」でいいですね(笑い)



若林

本当にその通りで、みんな学校教育を良くしたいと思っている。でも、できない。何がその障害になっているかという議論で、『学習指導要領』があるからだって言う人もいるけど、『学習指導要領』があったって、いろんなことができるんですよね。



松浦

CIECに対する期待もそれと一緒で、教育現場を、楽しい経験を重ねていく場にするってことですよね。



若林

私もそう思います。教育現場が楽しくないはずがない。そこには二つの意味があって、一つは、楽しくなかったら、それは良い教育じゃないんですよ。そしてもう一つ。楽しくなかったら、教育効果、学習効果も上がらないと思うんです。いずれにしても、教育は本来教師にとっても楽しい活動のはずなんです。



面川

松浦先生のおかげで、私はいろんなチャレンジをさせてもらっているなって感じます。私が大切にしたいのは「先生が何でもしてくれる」じゃなくて、子どもたちが自分の力で考えるようになれること。だから「教えよう」というより、真摯に子どもたちと一緒になって「悩んで考えよう」というスタイルを今後も大事にしていこうと思っています。



若林

本当にCIECも、楽しい教育現場を広げていける、ユニークな実践を頑張っている先生方がお互い励まし合って交流できる場になるように、もっともっと盛り立てていきたいと思いますので、今度ともどうぞよろしくお願いします。本日はインタビュー、どうもありがとうございました。


インタビュー後も話題が尽きない3人(左から、面川怜花さん、松浦執さん、若林靖永CIEC会長)